昭和43年10月17日 朝の御理解
御理解第80節の一番最後のところに、「不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれるようになる。信心する者は、よう心がけておるはよい」と、ここ、ここのところを、信心さして頂く者の心掛けと、言うておられますが、不都合、不行き届きと、いうことが、やはり人の信用を失い、勿論、神様にもそれでは、届かんと思うんですよ、不都合不行き届きが、その重なっていくと、いよいよおかげの受けられない、お道の信心さして頂く者が、実意丁寧ということを申しますが、その実意丁寧の、ではない心が私はこの不都合不行き届きだとこう思う。
実意丁寧、ですから「実意丁寧にならせて下さい」と、これが私共の願いなんですね、お道の信心さして頂く者の、これが中心になるわけです、だから願うただけではやはりいかんのですから、その実意丁寧の裏とも思われるような、「どうぞ不都合不行き届きがありませんように」という願いがなさなければならんと思うんですよね、不都合不行き届きがありませんように、今日も一日の中に、今日一日きょっ、お~、お生かしのおかげを頂き御用さしてもらう、ね、その、ことの中に「不都合なことがございませんように、不行き届きなことがございませんように」と願うそれに精進することが、私は実意丁寧だと思う、ね、これは「信心する者はよう心がけておるがよい」とおっしゃる、そこんところを言わば心がけていかなかればいけない。
昨日あのように盛大に、教祖大祭が奉仕されましたが、記念の記念式が行われ、合わせ行われたわけでございますが、あれだけの御大祭を、お~まあ、まぁてんやわんやの中にですね、あの終わってもう何時間かの後には、どこで御大祭が仕えられたじゃろかといったように、もう外から内、内、やっぱりここではもう当たり前にそこに御結界に両方に座ってこうお取り次ぎが出来られるわけである。
昨日皆さんが言っておられましたが、「今日は実にスムーズに最後の後片づけが出来ました」と言うておりましたが、これは皆の心の中にやはり、この行き届いた心があったから出来たんだとこう思うですね、最後の最後まで行き届いて、どこからどこまで、すみからすみまで、もう夕べの御祈念にはいつもと変わらんように御祈念が出けた、ね、ですから、もう、私共の心の中にですね、もう良か良かっち、あの良か良かという心がもう不都合不行き届きの始まりですね、「もう良かたい今日は」とこういうのが、ですから信心には関わり合いが無いごとあるですけれども、信心さして頂く者の心掛けとして私はこれが身に付いて行かなきゃいけないと、神様に向かうことではないけれども、信心さして頂く者の心掛けなんだ、「よう心がけておくがよい」とこうおっしゃる。
昨夜御祈念を終わりましたから、ね、お初穂の整理が、もう言うと私ももう実は昨日、昨日はおかげで体の方が非常に調子が良かったからもう始めから最後まであの、なんですか、勤めさして頂いたんです、で夜の御祈念が終わってから、え~、お初穂の整理にかかりました、私と末永さんと久富先生と(?)四人、四人で二時間かかりますよ、「これは一人でするなら八時間もかかるの」っち言うて言うたことです、うん、丁度十二時頃まで、でした、「もう明日で良かたい」ともう言いたいところです「もう今日はもう体もきつか、もうくたくたじゃから・・」もう、ところがおかげを頂いてですね、こう皆さんがこう行き届いて御用が出けて、帰られたその後にですよもう私の心の中に、その、その御直会を頂きましてお神酒を頂きますが、休まして頂きましたけれども、う~ん、何か心がですねやっぱこう生き生きと躍動しておると言うかね、おかげを頂いて勿体無いとか有り難いとかというようなものが、もう夜の御祈念まで休もうと思ったけれども、休まないぐらいになった、それでその、まあ信心の喜びが、あ~ですね、心の中にあります時にはなかなかそれを不行き届きになりません、終わってしもうてからそのお礼を申さして頂きましたら、あの何か分かりませんけれども、丁度朝顔のつるのようなね、つるものですけれど、こうつるがこ~う伸びておりましてね、してこのつるが伸びておる時には先の方がこう上の方へ上がっておりますでしょうが、つるは下の方へこうはなっとらんですよね、つるが上の方へこう向いとる、ね、いわゆる芽から茎、そして葉、そしてその一番先の、つるの先のところまでですね、そのやはり養分と言うかね、それがずーっとこう、吸い上げられておるところを頂いた、ね、おれは日中の暑い時なんかは、グシャっとなりますよ、ね、けれどもあれは、その生き生きとひっこしておる時に先の方が、もう上、上の方を向いちょる、ね、そういう情景を御心眼に頂くんですね、そして私は思うた、「ははぁ元気な心で信心せよとおっしゃるのはこういうことだな」とこう思う、ね、いわゆる本当にこの、不都合不行き届きのないように実意丁寧に行き届かせてもらえるということは、その根が生き生きとした、心がなからなければ出来ません、「もう良か良か、もう、もう今日は良かたい」ということになってくるんです、ね、そげなかったらまた「もう明日で良かたい明日で良かたい」で押しありになってしまうです、ね、これは信心をさして頂く者の心掛けなんですよ、ねそれには私共がまず何と言うても信心の生き生きとしたものを頂いとかにゃきゃならない、だからあのこれはここんところとちょっと違うようですけれども、「元気な心で信心せよ」ということはですね、「さあがんばる」といったようなものではなくてですね、え~、例えばどういう問題に私共が直面いたしましても、それが、しおれない心が元気な心ですね、むしろその先の方が上の方へ向かってこう、その朝顔のつるのようにですね、上の方へこう頭を持ち上げとるようなですね、そういう私は心の状態が元気な心だということを思います。
不都合不行き届きということ、そういうことがございませんようにという願いと、言わばそれを行じさしてもらうということが、まず実意丁寧の、お~、内容になるのですから。
今日は、お互いが「実意丁寧にならして下さい」という願いは皆が持っております、その実意丁寧にならして下さいという前に、「不都合不行き届きの、ございませんように」という、願いを持たして頂くような心掛け、同時にそれが、あ~、願われる信心、ね、「不都合不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる、信心する者はよう心がけているがよい」と、ね、敬うて、この、敬うてもらえれるということ、言わば大事にされるということですから、これは人からでも神様からでも、ね、大切に扱うてもらうということですから、ね、それには私共が一つ本気で行き届いた信心をさしてもろうて、ね、不都合不行き届きの無いように勤めさして頂くおかげを頂きたい、それを信心さして頂く者の心掛けにさしてもらわなければならんと、そう思います、ただ実意丁寧にならして下さいと言うだけではいけない、ね、そこんところを一つ行の上に現していかなならんと思いますね。 どうぞ。
秋山誠輝
2005年4月25日